少年アヤ「ぼくの宝ばこ」を読んで

 

 

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大人になってから、ぬいぐるみを全部処分した。

 

もう私には必要のないそれをただゴミ箱に捨てるわけにもいかず、段ボールに詰めて送るだけでどこかの国の子供たちに寄付できるというサービスを使った。

 

小さい頃の私はリカちゃん人形にもシルバニアファミリーにもセーラームーンにも興味がなかったけれど、なぜかぬいぐるみだけは大好きだった。リカちゃん人形は誰が持っていても「リカちゃん」だったけれど、私の持っていたいぬやくまのぬいぐるみには名前がなかった。たくさん話しかけ、毎日枕の横に並べ、毛布をかけて一緒に眠った。寂しい夜は抱きしめた。小さめのぬいぐるみにいたっては、ななめがけのクリアバッグに入れてお出かけに連れて行った。

 

シベリアンハスキーの「クロ」

ラブラドールレトリバーの「ラブ」

くまの「   」

垂れ耳うさぎの「   」

ダックスフンドの「   」

 

もう自分でつけた名前も思い出せないぬいぐるみたちは、今アフリカやカンボジアの誰かの腕の中にいるのだろうか。遠い遠い昔のこういった記憶がじんわりとよみがえってくるような、やわらかくさりげなく詩的な文章。それが少年アヤさんの「ぼくの宝ばこ」でした。ご自身のセクシュアリティや恋愛や家族の話と織り交ぜて、「かぐわしいもの、きらめくもの」への愛をつづっているエッセイ集です。アヤさんのことはよく知らなかったけれど、好きな文章を書く方がこの本をおススメされていたのですぐに買いました。エピソードごとにタイトルがついていてお話が分かれており、ご自身が大切にされている宝ものたち(これはものばかりではなく場所や情景なども)が思い出とともに文章の中でかわいらしく光を放っていて、ひらがなで書かれている言葉からは逆に力強さも感じる。いっきに読んでしまうのがもったいなくて少しずつ少しずつ読みました。

 

 

 

 

「ぼくはかぐわしいものが好きです。きらめくものが好きです。それだけのことで、うんこみたいな扱いを受けてきました」

 

最初のお話「ほんとうを生きたい」は胸を締め付けるこの文章から始まります。ママレードボーイのレターセットやシール、キラキラのセボンスター、ハートカンパニーのジュエリーボックスが好き。かいじゅうとくまならくまのほうを選ぶし、剣とステッキならステッキのほうがいい。どう感想を抱いたらいいか分からない鯉のぼりとは違ってお雛さまの方が魅力的に見えた。でも"男の子"であるがゆえにそれは普通じゃない、おかしいとされてきたこと。それは友達が言われている「テレビゲームをしちゃいけません」とか「キックボードに乗っちゃいけません」とかそれらの禁止とはまったく違う気がしていたこと。

 

ふたつめのお話「まっくろランドセルの怪」では"幼稚園ではみんな同じ格好だったのに、小学校になったとたん黒いランドセルを背負わされた"ことによるとてつもない絶望と拒絶が書かれているのですが、私は自分がそこに無意識だったことにハッとしました。ランドセルの色から男女の明確な区別が始まっている。幼稚園までの、みんな一緒という穏やかな空気をいっぺんにぶちこわすちからがランドセルにはあり、お前は黒、絶対黒の方へ行くんだよと監視されている。そのうえ好きなものまで否定されてしまっては、ナスみたいにつるつるしたあの真っ黒いランドセルに吸い込まれて消えてしまう、そんな気持ちだったと書かれていた。最近ではランドセルの色も自由に選べるようで女の子が黒や青を背負っているのも道でみかけるし、どうやら男の子だってプリキュアになれるらしい。今、世の中は少しずつではあるけど変わっていってるのかなあ。それは誰かが「おかしい」と声を上げ続けたからだろうなあ。

 

 

 

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去年から二丁目の魁カミングアウトという「ゲイアイドル」を応援するようになり、今まであまり関心のなかったセクシュアルに関する声や悩みが以前よりも目に入るようになったと感じています。ここの現場に通うようになった始めの頃は「ゲイの人たち」とはどう接するのが正解なのか?かわいいと言われるのは嬉しいのか?私は女だけど応援されて嬉しいのか?というようなとまどいがありました。でも彼らの等身大を歌った曲を聞いたり活動を追っていくうちに"ゲイだとか関係なくみんなと同じような悩みを抱えている"ことを知ったし、その人の中身に惹かれた場合、性別が何かなんてものはさほど大きな問題ではないと知った。私の推しのミキティー本物さんは「"自分を好きになれる活動"をしていきます」とたびたびお話してくれます。少年アヤさんはアイドルではないけれど、この人にとっての"それ"は自分を形づくる好きなものたちを大切に想うことそのひとつひとつなのかなあと勝手に想像しました。

 

好きなものがあることで、もしかしたら自分のことも好きになれるかもしれない。同じく応援している二丁目の魁カミングアウトのメンバー、ぺいにゃむにゃむさんのこのツイートはどうしようもない私自身のことを肯定してくれるような言葉で大切にしています。自分を好きでいることは相変わらず難しいけれど、でも私は私の好きなものや好きな人たちを想うこの気持ちには自信がある。私が選んだものは最強でしょう?って自信を持って周りに言える。そんなものがアヤさんにもたくさんあるんだな、と感じました。とても、羨ましくなるくらいに。

 

 

 

 

私は時々、自分が何を好きなのか分からなくなります。子供の頃、好きな色を聞かれれば即答で水色と答えることが出来たけど、大人になってからはその時々で好きな色も変わる。着たい服も毎日変わる。何が好きか分からなくなった時、私はなんとか自分の「好きなこと」「やりたいこと」を見つけたいと探しはじめます。でもやっぱりわからない。探しても探しても見つからなくて焦ってしまう。やがて「見つけたい」が「見つけなきゃ」に変わっていく。だんだんとプレッシャーになってくる。これは好きかもしれないと思いやってみるものの、たいしてそうでもなかったものだってあります。"なんとなく"好きなものならたくさんある。でもそれは本気でそれらを愛している人たちに比べればとても薄っぺらいもので、そんなことは本来気にしなくていいはずなのになんだか申し訳なくなってくる。だからアヤさんの一本芯の通ったような強い「好き」の気持ちが、ぶれぶれの私にはとても眩しく映りました。私はもともとママレードボーイのレターセットやシール、キラキラのセボンスター、ハートカンパニーのジュエリーボックスが好きだったわけではないです。でもこの本にここまで惹かれてしまったのは何よりアヤさんの言葉の紡ぎかたが好きだったからです。

 

「きみはどこにも香らない」というお話の中では、苦手な香水をつけると「ぶあつい膜にでもおおわれた気分」になると書かれていて、でも香りがその人にあっている場合その膜が身体とぴったりとくっついていて、その人自身の香りみたいに思えるといいます。逆に香水をつけすぎているとその人自身のにおいがなくなるようで、"まるで正体を隠しているみたいだ"と。

 

「恋をしたときのこと」というお話では、恋をしたら自分以外のすべてが相手になることについて書かれており、脱ぎ捨てられた赤い靴下やテーブルの上の青い目薬を見つめながら宇宙の始まりについて思いを巡らせていました。その文章の最後を締める言葉は"だってきみが好きだから"。たまらなくなってしまう。

 

 

 

 

私はこの本をかわいいものが好きな人たちにはぜひ読んでもらいたいし、逆にそういったキラキラしたものにどこか抵抗がある人にも手に取ってもらいたいです。なにより、今どこかでうんこみたいなやつの声に苦しんでいる誰かのもとにこの本が届いて欲しい。

 

自分を"大丈夫"にするアヤさんなりの方法がいたるところに書かれていますが、私はきっとこの先嫌なことがあっても、この本を開けば"大丈夫"になれる。そう思いました。アヤさんの文を読めば、自分の好きなものたちがよりいっそう愛おしく思えるし、なにげなく過ごしていた日常が今日からは少し光って見えます。

 

きっと、あなたも。